空は澄み切った青。
 冷たい風も吹かない穏やかな日。

 そんな日だというのに、あたしの心の中はいろんな色でぐちゃぐちゃだ。
 お寺の賽銭箱の前で手を合わせて45分。微動だもせずにお参りを続けているあたしは、どこからどう見ても不審者だ。


(どどどどどうしよう…っ…!)


 心臓はバクバク、早鐘を打つとはこういうことかと実感する。
 しかしここいる時点で、既に敵地(?)に足を踏み入れているも同然だった。境内から少し離れれば庫裡がある。そこへ向かおうとすること早10回。その度に心を静めようと手を合わせ続けているわけなのだが…。


(ずっとこうしている訳にはいかないしなぁ…)


 ようやく一歩前進した。
 腹を括ったと言ってもいい。

 雑草一つ見当たらない飛び石を一つ一つ踏みしめ、庫裡へ向かう。呼び鈴らしいものが見当たらないそこは、格子状の引き戸が内外を隔てているだけだ。躊躇いながらも手を添えると、それはすんなりと動いた。

 がらんとした玄関は静まっており、人の気配がしない。

「す、すみませーん…」

 遠慮がちに奥へ向けて声を掛けると、足音が降りてきた。それはだんだんと近付いて…足音の主が目視できると、あたしの心臓は一気に跳ね上がった。


「いらっしゃい、ちゃん!」
「お、おじゃまします」


 高橋総和。寺に居を構える者としては奇抜としか言いようのない、赤く長い髪。怖い印象を持ちかねないほど開けられたピアスも、彼の人懐こい笑顔で帳消しにされた。

「約束の時間を過ぎても来ないもんだから、何かあったのかと思ったわ」
「あ、あはは…すみません」


 実は1時間近くも家の敷地内にいただなんて言えない。あたしは苦笑いを零し、言葉を飲み込んだ。さり気なく荷物を手にした彼に促されて、室内へ足を踏み入れた。
 初めて訪れた彼の部屋は温かみのある和室。彼の現在の姿は仲の悪い父親が嫌がることを突き詰めていった結果だと言っていたが、部屋まではそれに影響されなかったらしい。

 そして部屋の中央に置かれたこたつの上には、緑色の生物。

「キング!」
「ギャー」

 コタツの上の蜜柑を器用に食べている姿は何とも微笑ましい。近寄りそっと撫でると、しっとりと冷たい肌が実に心地よい。キングもそれを不愉快に感じることなく、時折満足そうに乾いた声を漏らした。

「ホントちゃんの前ではイイ子なんだから」
「フフ」

 彼に促され敷かれた座布団に腰を下ろす。お茶請けを用意すると言って台所へ向かった彼の背を見送り、待っている間はキングを撫でる。新しく蜜柑の皮を剥き一房口元へ持っていくと、それを嬉しそうに口へ含んだ。

(可愛いなあ…)

 前足で次の一房を催促するキングに、自然と頬が緩む。そしてそれを口元へ持っていくと同時に、部屋の襖が開いた。反射でそちらへ顔を向けると、申し訳なさそうに眉尻を下げた総和さんが立っていた。

「ごめんなさい。お茶請け切らしちゃってて…急いで買ってくるから、少しだけ待っててもらえないかしら?」
「あ、そんなお構いなく」
「いーえっ、そんな訳にはいかないわ。大切なお客様ですもの」

 腰に両手をかけ頬を膨らます姿は、成人男性でありながら少女の様で。その様子がおかしくてついつい笑みが零れる。

「じゃあ私も一緒に行っても良いですか?」
「あら、待っててもいいのよ?」
「いえ、行きたいんです」

 きっぱりとそう言うと、総和さんは一瞬呆気にとられて目をぱちくりとさせた。けれどその顔は満足げなものに変わって、彼は壁に掛けられたロングコートに袖を通した。

「そう言うことなら付き合ってもらいましょ?」
「はい!」
「ということでキングはお留守番よ」
「ギャー!」
「フフ、お土産買ってくるね」
「…カー」

 仕方がないと言わんばかりに乾いた声を漏らしたキングに手を振り、あたしは総和さんと一緒に部屋を出た。







「晴れてるとはいえ、やっぱり肌寒いわねぇ」
「ですね」
ちゃん薄着だけど大丈夫?寒くない?」
「大丈夫ですよ。これ見かけより温かいんです」
「そぉ?最近の子はあちこち露出して、見てるこっちまで寒くなっちゃう」

 いきなり年寄りじみた言葉が飛び出し、思わず吹き出してしまった。拗ねた表情で"深刻なのよー?"と言われ、ますます可笑しくなってしまう。贔屓目で見なくても若い風貌の彼には全くもって杞憂だ。

 横断歩道の信号待ち。こっそりと長身の彼を仰ぎ見る。
 以前何度か会った彼は作務衣や法衣姿であったが、今日はグレーのボーダーシャツに黒のストレートパンツ。ファーの付いたコートとオレンジ色のサングラスが派手だが、不思議と嫌らしさを感じさせなかった。


(モデルみたい…)


 何処にでもいそうな平々凡々なあたしには、それだけで羨ましいことである。
 こっそり溜息を吐くと、それを耳聡く拾い上げた彼が長身を折り、顔を覗き込む様にした。

「あら、どうしたの?溜息なんか吐いちゃって」
「え、あ、ごめんなさい」
「もしかしてアタシの話、退屈だった?」
「そんなこと無いです!」

 咄嗟の否定に、総和さんが目を丸くする。
 彼の話に退屈するなんて無い。年が離れている分いろんな知識を持っているし、そうでない他愛のない話だってすごく面白い。

 乙女な部分もちょこっと持っているから、ガールズトークだって花開く。

 退屈なんてあり得ない。
 解ってほしくて視線を必死に送っていると、彼はふわっと相好を崩した。

「フフ、冗談よ冗談。でもそうねぇ…。在り来たりだけど溜息吐いてると、幸せ一個ずつ逃げちゃうわよ?」
「う、…ハイ」
「ん〜、あ、そういえば」

 総和さんの容姿に、女性として羨望と嫉妬を感じているなんて言えず言葉を失っていると、ポンと拳を掌に打ち付け嬉々とした表情でこちらへ向き直った。

「最近大学のサークルで知った、フランスの小説家が言ってた言葉なんだけど」
「?」

 そこまで言って満面の笑みを浮かべる彼に首を傾げる。



 それと同時に感じる、手のぬくもり    



「…えっ」
「<恋愛が与えうる最大の幸福は、愛する人の手をはじめて握ること>なんですって。
        幸せ、戻った?」



 間近で見る綺麗な顔に、一瞬にして釘付けになった。


 目を逸らしたいのに逸らせない。
 そんなジレンマが、恥ずかしいけど、嬉しい。

 ようやく緊張が解けた頃には、あたしの顔はとんでもないくらいににやけていたらしい。 口角が下がらずに空いた手で押さえると、相変わらず満面の笑みを崩さずに。


「行きましょうか」
「…ハイ」



      最大の幸福、そうかもしれない。
 さっき吐いた溜息には十分すぎるほどの埋め合わせに、またしても私の口端は緩んでいった。





手を繋いで歩く。





恋愛が与えうる最大の幸福は、愛する人の手をはじめて握ることである。(byスタンダール)
ピュアですねぇ。

 10/11/20  執筆